大阪市淀川区、十三大橋北詰のすぐ西側、淀川北岸の堤防上にある「十三渡し跡」の碑。
今の淀川は明治時代になって、治水対策のために人工的に直線状に開削された川ですが、かつては淀川は下流で多数の河川に分流し、この地に中津川と呼ばれる川が流れていました。
中津川は、南側の中津村と北側の神津村の境界となっていました。
大坂から西方面に向かう中国街道沿いにある、中津川の南北をつないでいた渡し舟が「十三の渡し」でした。十三は元々、中津川北岸の船着き場周辺の地名でした。
江戸時代には渡し周辺は栄えていたとのこと。しかし明治に入り、1878年に中津川に十三橋がかかり、渡しはなくなりました。
さらに新淀川の開削により、当時の十三の渡し周辺は新淀川の河川敷へと転用されています。河川敷転用で無人となったことで、十三の地名は一度なくなりましたが、阪神急行電鉄(今の阪急)がこの近くに駅を作り、その駅を十三駅と名付けたことで、駅周辺の地名として十三の地名が復活しています。
十三大橋と淀川の対岸方面。遠くに梅田の高層ビル群が見えます。