大阪俘虜収容所跡地の看板:大正区・平尾亥開公園

平尾亥開公園 大阪俘虜収容所看板

大正区にはかつて、第一次世界大戦時のドイツ軍俘虜収容所がありました。平尾亥開(ひらお・いびらき)公園に、看板が建てられています。

平尾亥開公園 大阪俘虜収容所看板

看板をみてみましょう。

平尾亥開公園と大阪俘虜収容所

江戸時代に平尾新田として、この地が開発された歴史から書き起こされています。平尾の地名は新田開発者の平尾与左衛門に由来します。

平尾に限らず、大正区の大半の地域は江戸時代に新田として開発されたことから、泉尾・千島・北村・北恩加島・南恩加島など多くの町名が、新田開発者の名前や出身地に由来する地名となっています。

「亥開(いびらき)」とは昔の小字名のようですが、亥年に開発されたことからついた地名だったそうです。

明治時代には、1908年にペスト患者の隔離施設が作られたものの、その施設は翌1909年に天満で発生した大火事「北の大火」で被災した市民の避難先となったそうです。

そして第一次世界大戦を経て、1914年にはこの地にドイツ軍俘虜の収容所が設置されたとのこと。1917年には閉鎖されたということです。

平尾亥開公園と大阪俘虜収容所の看板は、日本語とドイツ語の2言語で書かれています。ドイツ語「Hirao-Ibiraki Park und Gefangenenlager Osaka」も日本語とほぼ同じ内容です。

新田開発とか「亥開」の由来となった亥年、すなわち干支の概念とか、ドイツ人にとっては予備知識のない可能性が高いことをドイツ語ではどう説明するのかなと思ったら、あまり難しく考える必要はなかったようで、日本語のほぼ直訳でした。

平尾亥開公園と大阪俘虜収容所(ドイツ語)