日露戦争大阪天下茶屋俘虜収容所跡地の碑

日露戦争天下茶屋俘虜収容所の石碑 碑文

天下茶屋駅西側、デイリーカナート敷地内に「日露戦争大阪天下茶屋俘虜収容所跡地」の石碑があります。2013年4月に設置されました。

日露戦争天下茶屋俘虜収容所の碑

石碑の碑文は以下のようになっています。
日露戦争天下茶屋俘虜収容所の石碑 碑文

日露戦争大阪天下茶屋俘虜(ふりょ)収容所跡地

明治38年(1905年)、この付近、即ち南海天下茶屋停車場のやや北斜向軌道の西側畑中の大阪陸軍予備病院用地約6万坪に、平屋建てで60棟の水道・電灯・電話を装置した日露戦争俘虜収容所がありました。
我が国はハーグ条約の規定を順守し、人道上の立場をふまえ俘虜を手厚く取り扱いました。
俘虜収容所閉鎖後、明治42年に陸軍省から元の地主に土地が返還され今宮第一耕地整理組合事業によって区画され、後に宅地化されることになりました。

収容人数:6062人
期間:明治38年1月11日~明治39年1月13日

天下茶屋駅西側には、日露戦争終戦直後に俘虜(捕虜)収容所が開設され、ロシア軍の兵士が一時収容されていたそうです。

天下茶屋の俘虜収容所はわずか2ヶ月ほどで浜寺に移転したことや、地図や図面などの資料が残っていないことから、当時の新聞記事で辛うじて「存在した」という事実は確認できるものの、詳細な場所などは「天下茶屋駅北西側の約6万坪」以上のことはわかっていません。

西成図書館が、俘虜収容所跡の位置について以下のような推定をしています。

http://web.oml.city.osaka.lg.jp/net/osaka/osaka_faq/73faq.html#73-200903-001

施設の位置や建物の概要についても、写真や図面などの資料は残っておらず、わずかに新聞記事が次のように伝えているだけです。

「今回設けられたる天下茶屋俘虜収容所(元予備分病院)は天下茶屋停車場の稍北斜向即ち軌道の西側畑中にして敷地約6万坪あり其周囲は杉板塀を繞らし庁舎は柿又はラバライト葺平屋建60棟にて此外事務室、繃帯交換室、調剤室、手術室、庖厨、衛兵、憲兵詰所等の附属庁舎あり、井戸も備はれど飲料には浄水を用ふることとし水道事務所は昨日より鉄管敷設に着手し電話、電灯を装置せり」(「朝日新聞」1905年1月12日付)

大体の位置として「天下茶屋停車場(現在の南海本線天下茶屋駅)のやや北西方向で現在の南海本線の線路の西側一帯」という情報が得られますが、敷地の形はわかりませんのでどの辺りまでが収容所の敷地だったのかはわかりません。
ただ、敷地の西側と北側の限界については、次のように推測することは可能でしょう。
<西側の限界>
現在の南海本線の線路の西側がほとんどが畑地だった当時の状況の中で勝間街道(現在の橘小学校の東側の南北の道路)は江戸時代以来の重要道路として現在まで伝わっていますから、これを破壊して勝間街道の西側まで収容所の敷地が伸びていたわけではないでしょう。
<北側の限界>
現在の花園交差点東北角にある弘治小学校の大正(1912年~1926年)の頃を描いた絵地図*2の中に「天井の高いバラック建」が描かれ、その説明として「元ロシア人俘虜収容所の建物を天下茶屋より移築したもの」とあることから、現在の花園交差点の辺りは収容所の敷地には含まれていなかったことになります。
試みに、東西を南海本線と勝間街道、南北を天下茶屋駅を通る東西の線と花園交差点を通る東西の線に区切られた地域の面積を地図から求めると概ね8万坪となります。新聞記事では収容所の面積は約6万坪とあり、面積の上でも矛盾しませんから収容所がこの範囲内にあったと想定でき、この範囲の約4分の3を占める、極端に長細くはない敷地だったと推測されます。

天下茶屋駅は1885年の開業以来、路線こそ高架化されたものの同じ位置にあります。

天下茶屋駅から勝間街道までは西へ約400メートルで、勝間街道西側でも「やや西側」とも表現されうるでしょう。しかし駅から街道の間が一面の畑で、街道より西側に収容所があったとは、新聞記事の記述からは考えにくいでしょう。収容所敷地は、南海線の線路と勝間街道を挟む範囲に立地していた可能性が高いと思われます。

西成図書館の記述を元に、跡地がおさまると思われる範囲を地図に落としてみました。
天下茶屋俘虜収容所 推定範囲地図

オレンジ色の線が勝間街道、ピンク色で塗ったところが跡地と推定される範囲です。おおよそ現在の西成区花園南1・2丁目、梅南1丁目、松1丁目、橘1丁目の計約8万坪のうち約6万坪の範囲におさまるのでしょうか。