大阪市阿倍野区橋本町、晴明丘小学校西敷地の壁、朝陽幼稚園入り口向かい側のあたりの晴明通沿いに、「大阪市顕彰史跡第219号 天下茶屋遊園地跡」のパネルが設置されました。
天下茶屋の地名は今は西成区側を指すことが多いようですが、現在天下茶屋と呼ばれる西成区の地域の周辺に隣接する、現在の阿倍野区の松虫・晴明丘(現行町名では橋本町・晴明通・相生通・北畠など)も、明治時代以降天下茶屋の郊外住宅地として開発された経緯があります。
このあたりには明治時代「天下茶屋遊園地」があったそうです。遊園地といっても現代の言葉で連想するような「ジェットコースターなど大がかりな遊具が設置されている娯楽施設」のことではなく、明治時代の「遊園地」という言葉は、現代の言葉でいうところの「公園」の意味のようです。
橋本町という地名は、明治時代にこの地の開発をおこなった橋本尚四郎・久五郎兄弟に由来します。
1892年頃から当地の開発がおこなわれ、1894年に公園ができました。
周辺の宅地開発に合わせて、公園も計画に配置したとか。この地にあった鯨池という名前の池の周りに、料亭や茶室を配置していたとのこと。1909年は、夏目漱石もこの地を訪れたと記されています。
天下茶屋遊園地に関しては、図書館などで資料を探してみましたが、詳細な場所や廃止の時期など、パネルに記されている内容以上のことはよくわかりませんでした。少なくとも、跡地を含む一帯が住宅街になり、今も続く閑静な住宅街となっていることだけは事実のようです。